2015年はサファイアプリンセスにて、中国チャーター便のお客様を上海から日本の港を往復する便で乗船公演をしていた。そう、日本に初めて大量に中国人が押し寄せ、爆買いツアーなるものが生まれた年。私はその最前線で100%中国の乗船客相手に、中国語を駆使してステージと歌を弾き語り、台湾チャーターを皮切りにその後上海便へと移る計10ヶ月間の公演に挑んでいた。自分にとっても初挑戦だらけのまさに怒涛の年だった。
テレサ・テンが遺してくれたアジアへの遺産は大きいことを痛感した瞬間ともなった。テレサマジックによって中国語の歌詞と題名に置き替えられた日本の昭和歌謡や演歌が、世代を超えてでも中国人の心に長く深く刻み親しまれていたという事実をまじまじと思い知らされた公演だった。ステージ中に私が「我是日本人」(私は日本人です。)とアナウンスする度に、次から次へと日本の歌のリクエストが入った。
テレサ・テンの凄いところは、日本歌謡曲ゴールデン時代の演歌も含めた大ヒットソングや、彼女自身の大ヒットソングを北京語、広東語、英語、インドネシア語の歌詞でカバーして中国大陸から日本を除くアジア全域で大ヒットさせていたこと。昭和時代の日本と中国はお互い両国の交流は閉ざされていて今程オープンではなかった時代。そんな時代に昭和歌謡や日本の演歌を中国に大量輸出していたというのだからまさにパイオニア的存在であり、カリスマだったと言える。
私が小学生だった頃、ミステリアスなオリエンタルディーバは哀愁漂う歌を唄って日本で人気を博していた。
聡明で知的な人という印象を子供ながらもはっきり覚えている。
船上で中国人のどのお客様にお尋ねしても、老若男女問わずリクエスト曲を尋ねると決まって鄧麗君(デン・リーチュン。テレサ・テンの中国名)いまだ彼女のカリスマと人気度は不動の地位を維持していて驚くばかり。ミステリアスなオリエンタルディーバは、没後20年以上が経っても、天国からアジアを支配していると思い知らされた。100%中国人乗船率の客船で演奏したこの中国ツアーに、彼女の歌なくしては私のステージは存在しなかったという程、いまだ彼女の歌は中国人の心を鷲掴みにして離さないことには驚愕すらした。
公演期間中、歌詞を中国語と日本語で入れ替え遊びみたいに歌うと、ステージの盛り上がり度がいつもよりもっと熱くなる瞬間が沢山あった。同じメロディーの中で二ヶ国語が、かわるがわる行き来するのがおもしろいとそれだけでも単純にウケてくれた。特に谷村新司さんの昴は超有名で、中国語で歌い出すと、観客も歌い出し、毎回ほぼ皆で合唱みたいになってしまう日が多かった。そんな連帯感とともに、日中友好の日々は続いた。テレサ・テンはアジア人相互関係における平和と愛のミューズと呼ぶに相応しい歌手だったと中国の方々にこの仕事を通して教えて頂いた一幕でした。
#你好吗? #我今天过得很好
#我将从今年春天开始学习中文