Akiko Hori | Composer and Producer

音楽特別講座 講師紹介ページ

講師 / Akiko Hori

受講者さまにDAW / DTMの知識をご提供できる講座内容に興味を持って頂きたい思いと共に私のこれまでの音楽で培ったキャリアを紐付けながらの全七章。長い文章ですがお付き合い下さいませ。

【第一章】初プロデュース曲誕生のきっかけとなった原点

5歳でクラシックピアノを習い始める。ピアノ教室に通いながら読譜を習い始めた頃から練習の合間は耳で思いついたまま演奏することが徐々に楽しみとなった。宿題のピアノ練習は好きではなかったが思いつきの耳で記憶した音を弾く時間だったらどれだけでも弾いていたい。今思えば、即興を遊びながら実践していた。

その延長線上で出来上がった初めての作品が「はるかぜにのって」。6歳に入って作った曲である。このはるかぜにのっては後の2020年に初のセルフプロデュースしたオリジナル曲 Konosekai (この世界)のモデルとなった原点のメロディーとも言えます。

さて、これから作曲をしてみたい方へここで質問です。即興演奏をしたり曲を作ることは複雑で難しそうと思っていますか?

そう思っているのであれば先ずは私の特別音楽講座にある音楽理論講座を受講してみることをお勧めします。

メロディーは鼻歌で簡単に浮かぶけどそれを長い1曲に繋げることとなるとという声をよく聞きます。

「理論」はあくまでも「ツール」!

でも、あればこんなに使える便利なツールってない!!

必要事項だけを絞った音楽理論を身につけることをまず提案します。

必ずそれぞれ皆さんの中に自然に湧き上がる音という感性は既に存在しています。それにプラスしてある程度の座学の知識が身につけばその後の作曲はもっとスムーズにできるようになることでしょう。

ご興味ある方は是非 ✉️ お問い合わせフォームまでご質問・ご依頼下さい。

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【第二章】尊き音感

名古屋の地元の音高を出て音大に進んだ。学業のカリキュラムで習ったことは基本を身につけて音楽人生のスタート地点にやっと立てたところとも言える。そこから音楽ビジネスに繋げる力とは必ずしも直結するものでもなかったりする。そうやって考えると気が遠くなる様なでも、否めない事実だったりもする。音楽を職業にして生きていく為にひたすらに楽しいだけでは成り立たないし学校の成績が良かったからといって社会でうまくいくとも限らない。自分の存在価値を見つけ出すこと。それってとても大切なことなんじゃないかと当時は漠然と考えていた。

一通りの基本となるクラシック音楽に浸ったその後は、

演りたかった即興演奏の探究に傾倒した。クラシック以外のさまざまな他ジャンルの音楽を貪るように聴いた。ジャズ、ラテン、ブルース、ポップス、ロック、レゲエ。ジャンルやアーティストを問わず自分にとって耳心地の良い曲は全て自分のピアノレパートリーとなった。

音楽というのは歴史上でつながり合っている。音の影響を受け合いながら新しいジャンルが生まれてきた。後に音楽のジャンル分けはされても元を辿ってみれば一つの出発点に繋がる。クラシック音楽からブルースが生まれジャズが生まれラテンやロックが生まれた。でも音楽のアプローチ方法が変化して進化していっただけでそれぞれの引き出しを理解できれば音楽は一つである。音楽は歴史の中で切磋琢磨して積み重なりあった結果の結晶だと思っている。

自分流に即興演奏しながらいろんなジャンルの音楽に影響を受けて弾いているうちに幅広いレパートリーを持つようになった。その頃からホテルバーやレストランでピアノ演奏する依頼が増えていった。

徐々にプロとしての演奏活動が始まって行った。

その当時、ジャンルを問わず弾く女性ピアニストという看板を掲げていると尋ねられたお決まりの質問が 「ピアノ弾き語りもできますよね?」という依頼だった。仕事の依頼を受けて見送るわけにはいかないという欲も手伝ってじゃあチャレンジしてみようということとなった。今思えば、自分自身に対しめちゃくちゃ強引な挑戦だった。でもその当時の言葉で言うイケイケ精神が結果的に多角的に自分自身を変革させる展開へと導いてくれた。いつの間にかピアノ演奏の際に歌も歌うようになり必然的に迫られる状況の中、ピアノ弾き語り奏者としての新しい自分が誕生していた。新しいページをまた一つ開けた瞬間だった。

その後は技術的に必要とされたボイストレーニングに専念しレパートリーを増やしたのは勿論のことであったが歌えないと思い込んでいたことを捨て新しい分野にチャレンジしたことは結果的にその後の私の人生の生きる術にさえ成ってくれた。

カラオケで歌うことすら当時は避けて生きてきたピアノ一筋な人間が少しの準備期間で歌うことを職業にできたかという種明かしをすれば、それは絶対音感に助けられたことを上げたい。

耳で聞こえた音をピアノでなぞって音にする。声でなぞってみる。絶対音感を使って聞こえた音やイメージした音を発声して音程を確実にとっていくと歌いやすくなるんです。

絶対音感は特殊能力だと思っていませんか?大人になってから習得することって実は可能なんですよ。後天的に身につける音感を相対音感と呼び、1つの音と別の音がどれくらい離れているかを認識できる能力を身につける訓練をします。

これまでにも講座の受講者さまが後天的に相対音感を身につけるのを一緒に体験させて頂いてきました。訓練次第でその能力は身につくのです。

でもその為には正しいイヤートレーニングは必要となってきます。

相対音感を身につけるとDAWを行う時にも役立ってきます。音楽制作がもっとスムーズに行える様になります。そんな理由からもDAW受講者さまへはイヤートレーニング講座をDAW講座に加えて短期集中にて別に受けてみることをお勧めしています。相対音感が音階を正確に捉えることができるツールとなってくれるのでDAWの作業の時短ができるようになります。

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【第三章】初めての海外遠征

音楽の演奏する仕事が回り始めた頃、2001年に人生初めて海外からのオファーが舞い込んだ。

イギリスの音楽エージェントで世界中のホテルへ長期滞在型で演奏するミュージシャンを送り込むのを得意としていた。

オファーが来た行き先はシンガポールヒルトンホテル。その頃のシンガポールはこれから経済が発展していくと言われていた成長期の真っ只中にあった。

この一連のオファーまでのやり取りはEメールのみでやり取りされた。オファーされて契約書を打った直後に一度だけエージェントと国際電話で会話した。日本であればビジネスは顔を見てその人の人間性がわかった上でないと信用できないという当時の常識は全くなく、合理的な契約があっさりと交わされた。

業務内容の理解力、対応力と即戦力さえ備わっていればビジネスパートナーとして進行できるという定義はこういう業界で長い時間を過ごした後の結果論として今だからこそ理解できること。でも、当時からそんな力が自分に既に備わっていたとは到底思えない。そういった素養が少なからずもあった芽を見出し引き上げてくれたエージェントの思い切りの良さのおかげである。自分の中では背伸びをしたらそこに届いたという例えが浮かぶ様な出来事だった。

最初のオファーは今から20年も前のお話しである。でもこの頃既にインターネットはあって、特に海外ベースのお仕事についてはデジタルで取り引きできるビジネスが普通に存在していた。

グローバルに音楽のビジネスチャンスを掴む時に用意しておきたいことや習得したい知識などお困りのことは何でもご相談下さい。特別音楽講座にてメンタリングを行っています。

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さて、お話しの途中でした。旅立つ前日に戻しましょう。

シンガポールへ明日出発という前夜。大惨劇のニュースとして今でも忘れられないニューヨークで起こった911事件。その速報がちょうど荷造りをしていた最中にテレビからパッと目に入って来たのだ。最初これはSF映画のワンシーンなのか?と目を疑いながら漠然としたことは今でも忘れられない。翌日、行く先々の空港では厳重なテロ警戒と防止の為の対策が急遽設けられ緊張感は一色となっていた。初海外オファーヘ向けて海外へ飛び立つ私にとってはとにかく無事に現地へ渡らせて欲しい、そして任務を果たさせてほしい。願いはそれだけだった。シンガポールへ向かう途中は珍道中に見舞われながらもなんとかシンガポールへ無事上陸。

到着したシンガポールは活気に満ち溢れ元気な人々と華やかなエンタメで賑わっていたので直ぐにモチベーションを切り替えて仕事に打ち込むことができた。

日曜日以外は毎晩夕方から午後11時頃までホテルラウンジで演奏。仕事が終わって滞在する客室階の自分の部屋へ。それからまた外の通りに出る。オーチャードロードからタクシーを拾って出かける先は。

他の様々な演奏者を聴く偵察と研修が名目ではあるが、ミュージシャン恒例の肝試し= 「飛び入り」をしに行くためだった。技を磨く絶好のチャンスとも言える課外授業のような気持ちで出かけて行ったことが懐かしい。眠らないシンガポールには深夜を過ぎても夜な夜な生演奏しているホテルのバーが当時は沢山あった。日本のホテルでは考えられない環境だった。

5つ星ホテルであってもジャムセッションや飛び入りの演奏参加を快く受け入れ合う。マネージメント側もミュージシャン達にステージ内容は託していて飛び入りもミュージシャン側の人選を容認しているようだった。大らかなその土地の環境であるがゆえに許された自由な音楽環境はミュージシャンにとって天国みたいな場所だった。

今のデジタル時代にはピンとこないフレーズの言葉となりつつありますが、音楽の技も感性も現場で叩き上げてなんぼという洗礼を当時のシンガポールからは受けました。成長の糧となった良き思い出がいっぱい詰まった今でも大好きな街です。

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【第四章】指導者として

シンガポールヒルトンホテルとの半年契約を無事終えて、次なる向かった先。更に南下してオーストラリアへ。

オーストラリア・クイーンズランド州の地元公立小学校5校。平日は日替わりで小学生にピアノ演奏とボイストレーニング指導する仕事に着いた。週末はフリーランスミュージシャンとしてブリスベンからゴールドコーストにかけてホテルのバーやカジノ、クリケットクラブ、ヨットクラブ、ゴルフクラブなどの音楽演奏できる主催地がある場所へ出向き単発でピアノ演奏や弾き語りをする仕事を取る。そんなペースでオーストラリアでの生活が始まった。

小学生にピアノや歌を教えるに当たり日本人である私が越えるべきハードル。それは子供への接し方だった。日本であれば表現豊か過ぎなのではないかというくらいオーバーリアクションな相槌や言葉の言い回し、言葉の選び方が求められた。いかに指導者が子供のやる気を盛り立てることができるかというところが良い指導者と評される腕の見せ所となった。オーストラリアの子供達はとにかく自己主張と自己表現が強く自己アピールに長けていた。4歳児であろうが理論的に大人に抗議が出来る子もいて既に自分の意思を持っている子が珍しくなかった。そしてとにかくよく動く。じっとしていられない。じっと話しを聞く受け身の生徒さんにピアノの前に座って教えるところからスタートしてという日本式な教え方や常識はここでは成立しない。そんな自由な感覚の集中力意識の子供達をいかに飽きさせず導いていけるのか?指導者として成長を目指す日々が続いた。

和と洋は静と動という対極的な言葉に置き換えられることがある。オーストラリア人の子供達が動であれば日本人の教育観念は静という例えはここで言いたいことに当てはまっている。

自分を客観視して反省と改善を繰り返す。教え方が板に着くまでの研修期間は生徒さんにレッスン風景をビデオ撮影させてもらう了承を得て講師派遣先の責任者とその内容を視聴しながら各場面で必要な指導法を話し合いアドバイスを受けることが続いた。

これが思っている以上に自分の弱点が赤裸々となり表情豊かにしているつもりのシーンでもフラットな表情や動作が気になった。そこから一つ一つ自分自身を変えて表現していく繰り返しは新しい引き出しを得るきっかけとなった。

これは教えることに限ったことではなく、民族、文化、習慣が違う人々にそれぞれに合った伝え方をそのお土地柄に合わせて “ローカライズ” して伝えることはとても大事なこと。垣根を取って世界を一つに活躍する時に特に必要とされる要素であると思う。

オーストラリアには国が設けたピアノボーカルグレード( AMEB )やピアノ&ボーカルコンペティション( Australian National Eisteddfod )があった。生徒さんがそれによってピアノをもっと好きになってくれることが私にとっても毎年励みになっていった。幸運にも優秀な生徒さんに多く恵まれた。素晴らしい成績を持ち帰ってくることで生徒さんがメキメキと自信をつけて成長していく姿は達成感に包まれる瞬間だった。コンペティションで1位を獲得してくれた生徒さんもいた。でも、音楽は音を楽しむものというスタンスは崩してほしくなかったので結果よりもそこまでに到達するプロセスにフォーカスを置く教育を一番の目標にするよう努めた。

英語圏の生徒から日本人と現地人のハーフの生徒、そして日本から駐在員として家族と共に居住している日本人の生徒さんまで。ありとあらゆるタイプの子供達に英語で、そしてご要望に応じては時に英語と日本語両国語を交えて音楽表現法を説明する脳をフル回転に活用する日々が続いた。

そうこうしながらあっという間にオーストラリアにも慣れ親しみ、ピアノや歌を教える傍らその合間に週末は弾き語り演奏する仕事も維持し、その合間にボイストレーニングに特に強化的に取り組む時期を過ごすこととなった。

呼吸の仕方に重点を置いてしまいやすい発声法。

でも忘れてはならないのがその時に使う筋肉と骨である。

アジア人と西洋人の根本的な骨格の違いに着目をして私の骨格にあった発声法を指導してくれた素晴らしいボイストレーナーと出会えたのがちょうどこの頃であった。このボイストレーナーとの訓練のおかげでロングトーンやミックスボイスとヘッドボイスの使い分けがもっと楽にできる様になった。その結果、筋肉の動きと骨の角度を意識した独自の発声法メソッドを確立する事ができた。

伸び伸びと人生は謳歌するものというオーストラリア人の気質や考え方は衝撃的でそれまであった私の島国根性はどこかに吹っ飛んでしまった影響力といっても過言ではなかった。

音楽と人生観に更なるスパイスを振りかけてくれた刺激的なオーストラリアでの生活は更なる知識と知恵につながる第一歩となった。

【第五章】深まる即興演奏

2011年 マカオのクラウンタワーズホテルからのオファーを受けた。

正確に言えばメルコリゾーツが運営する統合型リゾート、City of Dremas ( シティーオブドリームス マカオ)の演奏契約でクラウンタワーズホテル マカオ(現、NÜWA ヌワマカオ)というクラウンタワーズホテルを含む三つのホテルや水上劇シアターなど総合レジャー施設を所有するリゾートを運営する会社から頂けた演奏契約であった。

このオファーは完全に想定外のスカウトだった。唐突に空から降ってきたような出来事だった。

日本人のピアニストで洋楽も自国の歌のレパートリーも持つ弾き語り奏者、バイリンガル、既に海外での演奏経験があるミュージシャンなら尚望ましいという条件事項を元にマカオにあったそのエージェントは私のWebサイトを検索の方法で探し出したらしい。今では笑い話だが、最初怪しい者ではありませんと言いながらご連絡頂き半信半疑に応答したことを憶えている。

この時も、実際にはお会いしたことのない状態で契約成立までのお取引きをEメールと国際電話でさせて頂いた。当時はオーストラリアを後に帰国最中だった。ちょうどこの頃、生まれ育った愛知の地元の人々へも音楽をお届けしようと、ライブも定期的に行わせて頂いた時期であった。でも私の本気で働く場所は外だと決めていたので、これからまた出掛けて行く準備と束の間の祖国を楽しみ休憩をしていた時期でもあった。

2002年のクリスマスシーズンを香港にクリスマスを彩る為の演奏で呼んでもらって以来、あの地域には足を踏み入れていなかったし、そのお隣であったマカオには実はまだ一度も訪れていなかった。また新しい場所を開拓できる機会となる。冒険心がふつふつと掻き立てられたオファーとなった。

カジノの収益で国が守られているマカオはホテルの作りも一種独特でホテル内の一角歩けばカジノルームに繋がるというくらいカジノと人々が密に接しあっている環境にあった。眠らない不夜城と言われたマカオには数え切れないくらいのホテルがひしめき合っていた。

当時、オファーを受けたクラウンタワーズホテルのバーはホテル入り口のレセプションに入るとすぐ真横に設置されていた。日中であればカジノの合間やショッピングの合間にハイティーをしに立ち寄るお客様で賑わう。夜になればカジノに繰り出すお客様やカジノに関わるビジネスの商談のミーティングの場として使われたり、観光客がフラッと立ち寄る場所でもあった。

演奏スケジュールは午後のハイティーの時間帯から始まった。午後3時からまずピアノソロ演奏をする。ハイティーセットを楽しむお客様の前で中国の伝統的な舞をしながらお茶を注ぐパフォーマーが登場してその横で演奏をしているという毎日だった。贅を尽くされた優雅な午後のひとときをお客様に楽しんでほしいというホテル側の演出であった。

休憩を夕方に挟んだ後は陽が沈んだ頃からバータイムとなる。歌を入れた弾き語り演奏の始まりだ。夜のネオンと共に街は更に活気が増していく。カジノ時間のゴールデンタイムへ。浮き足立ったオーラ漂う街。そんな一種独特の雰囲気が隣り合わせに漂っていた。

マカオは中国の影響を大きく受けたオリエントな佇まいの部分とポルトガル領であった頃の影響がうまく混じり合っていて歴史深く情緒ある風情が味わえる。でもその反面カジノで毎日毎夜、巨額な大金が動いているという二面性もあった。賭け事に勝った負けたという喜怒哀楽劇がこの街では公式なことであった。

そんな環境で音楽を演奏する仕事に恵まれたことが洞察力を鍛える良い機会となってくれた。

世界中から様々なお客様がこの地を訪れる中、印象深く残っているのは常連のお客様が頻繁に訪れてはそのたびに同じリクエスト曲を曲想を変えて弾いて欲しいという別バージョンリクエストが来ることだった。

ホテルに訪れる人々に癒しの音楽空間を提供しながら、

弾き方や表現方法を工夫する演奏時間の中で即興演奏のアレンジ力を構築する期間となった。

今現在DAWを使って作曲する上で色々な音楽の要素を混ぜ合わせるアイデアはこの頃に叩き上げたアレンジ力がかなり生かされています。

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【第六章】船上のピアニスト

海外の主催地をターゲットにしてきた私の音楽人生に更なる大影響を与えることとなったのはその後に訪れた豪華客船での仕事だった。

2014年 米国客船会社カーニバルコーポレーションの傘下にあるプリンセスクルーズよりオファーを受けてサンプリンセスにて初めて演奏公演を半年間行った。

船というのは階級制で部屋当てや行動許容の範囲が決められる。

私はゲストエンターテナーというポジションに位置付けられていた。基本的には乗客側の対応を受ける権利もありクルー側にもいると言う立ち位置という微妙な位置にいた。部屋はクルー側にありながらも収納家具も備え付けられクイーンズサイズのベッド付きの一人部屋を提供して頂き、身の回りのお世話係のステュワードもつけて頂けた。お客様が受けられるサービスやレストラン、娯楽施設の利用もできる同様の待遇を受けることができた。

契約時のエージェントの仲介やコミッションの提示も誤魔化しようないクリーンな取り決めの上で進められた。

日本人アーティストとして日本の国外にこだわり、海外からのオファーを積極的に受けた理由はこういう点だ。

日本の音楽業界であれば A-List(芸能人枠や日本のメジャーレーベルからデビューしている枠組のアーティストを指す)へ優先的に与えられる待遇でもこうした海外の直接オファーの場合、フリーランスミュージシャンの私でさえ、交渉次第ではこちらの条件を叶えることができた。

こうした優遇を保証してもらえる可能性がある自由さと自分の意思でビジネスを選ぶことが出来る仕事のスタンスが私にはとても合っていた。

演奏契約する前にまず確認しなければいけないこと。

自分の提示条件をどれだけ相手側が受け入れてくれるのか。この部分は先ず大きな前提となる。私のこういった海外オファーの場合、主催地へ出向いてそこで長期滞在をし生活をしながら演奏することとなる。払い戻し可能な経費や保証のリクエストは全て提示すべきことであるし待遇の内容も詳細を伝えて自分が交わしたい契約内容を提示する必要がある。時に一度の交渉では受諾してくれなかったとしてもである。そこで引き下がってはいけない。根気よく念入りにが勝負の要とも言えた。趣味でもなければボランティアでもない。報酬が発生する一世一代、一期一会のビジネスである。両者にとって納得できる契約事項を交わせることを目指す。当時からマネージャーのいない私にとって海外からのオファーは寝ている虎を呼び起こすかのように想定外の交渉能力をフル回転させることとなった。場数は知識を勝った。

やれることは自分でやってみる。そしてその国の文化、日本との違いを楽しんでみたことは強靭なメンタル作りにとても役立ってくれたと思う。

救世主は結局自分自身でしかいない。生かすも否かも、結局は自分自身にかかっている。

基本的に忖度という言葉は海外の社会には全くないので(=デジタルなインターネット社会でも同様。)総べてはっきり意思表示して発言しないと挙動不審、情緒不安定な人に間違えられます。愛想笑いや日本語でよく使う申し訳ありませんという様なフレーズで始まる謝罪を匂わせる言葉は彼らにとっては意味不明と取られます。勿論、こちらが先に謝ることはもっての外です。国によっては先に謝った側が、いかなる内容であっても罪になる法律も存在するのですから。

潤滑に取引することができる能力。自己アピールを適材適所にできる能力は必要となってくる。

回を重ねる度に逞しさを増して行ったキャリアの積み上げ方だった。

海外音楽業界へ向けてフリーランスアーティストであるあなたがビジネス取引きをしたい時。必要なプレゼンの仕方から書類への対応の仕方、交渉の仕方まで。音楽ビジネスのコンサルティングをメンタリング講座で行っています。

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契約によっては一回の巻が長い演奏契約となることもあった。

2015年のサファイアプリンセス乗船の時は10ヶ月間。その後、2019年のサンプリンセスの世界一周航海の時は4月〜7月までの3ヶ月間を終えて帰国、神戸港に到着後、そのまま飛行機で成田へ。翌日には横浜港からダイアモンドプリンセスに乗船してそのまま11月末まで更なる5ヶ月間乗船したという長い航海もあった。

長い期間の航海が続く場合、当時、よくクルーズの弾き語り奏者やシンガーの間で話題になったのは、どうやって声の調子を長い期間継続して維持できるかということだった。一晩3〜4回のステージ(各40分、時に1時間)を毎晩こなす。それが5ヶ月間ノンストップで続くということもざらであった。喉にとっては過酷な環境なのは言うまでもない。でも幸いにも独自で開発した筋肉と骨の角度にフォーカスを置いたボイストレーニングメソッドを使うことによって喉を潰すことなくポリープもできることもなく毎晩休むことなく歌い続ける事ができた。

こうして、2014年春にサンプリンセスに初乗船して以来2019年の11月末までサファイアプリンセスとダイアモンドプリンセスに乗船する機会に恵まれ、乗船公演の演奏契約をこなして行った。

その間に旅した国は30ヵ国以上にのぼり、約60ヵ国からの乗船客とクルー達との素晴らしき出逢いは感動の連続であった。

旅と音楽がテーマの私の音楽キャリアが最高潮に達した瞬間だった。

【第七章】作曲家としての出発

2019年11月末日。 船上公演を繰り返す船上のピアニストのキャリアにいよいよ終止符を打つ時が来た。演奏家としてこれまで数え切れない生演奏の場で生み出した音の記憶。これからはレコーディングをしてオリジナル音楽作品として残して行こう。そう決めた。演奏家の経験を作曲家として活かす長年の思い描いた夢を実現させたくて次なる展開を求めて音楽スタジオを早速開設。音楽制作に取り掛かり始めた。

演奏家時代に演奏した海外の主催地はホテルであれば訪れたゲストがリラックスして安らぎを求めるスペースであり、豪華客船であれば夕日が沈んでデッキから客船内に戻った時にそっと立ち寄りたくなるような静けさと癒し音楽を提供する為のスペース。そこにいるピアニストの私だけにスポットライトが当たるというよりはお客様の体温をこちらが感じ取ってその場にいる皆が幸せになれる空間を生演奏によって創造することが求められた。その日の客層や雰囲気によって選曲も瞬時に決めて、その場の状況に応じて曲順も考えて組み合わせる。曲想もその場の雰囲気に合うようにアレンジして演奏する。そこに訪れたリスナーの一喜一憂をこちらが読み取って音でお返しをする。洞察力と音への対応力が求められたこれまでの経験を全て自分の作品に注ぎ込んだ。

音楽スタジオを開設するに当たり、2020年1月には、Apple社 Logic Pro X の公式教則本の筆者 David Nahmaniによる4日間のLogic Pro X Workshop を受講できるワークショップに参加する為、渡米。Davidの本がきっかけでソフトウエア楽器を使って音楽制作することを始めたのでこのワークショップに参加できたことは制作意欲掻き立てられる瞬間となった。

この当時からベッドルームプロデューサー(=自宅のベッドルーム兼スタジオで DAWを使用して音楽制作してどんな編成サイズの音楽曲もベッドルームのスタジオ制作で完成できる作曲家のこと。)という言葉を英語圏のDAWユーザーの間でよく聞くようになっていたのでこのワークショップに参加した時、他の受講者の面子のほとんどが趣味やサイドビジネスの枠でもなく、本気でベッドルームプロデューサーを目指していることがリアルに伝わってきた。知識の習得以上に沢山のポジティブを得ることのできた4日間となった。

帰国後、本格的に音楽制作に取り組み、

2020年5月1日 初のセルフプロデュースによるオリジナルシングル Konosekai を各配信会社よりリリースする。

同年、5月29日 オリジナル20曲を収録したアルバム  Shonan Twilight をリリース。

それ以降、忙しい現代を生きるリスナーの緊張を和らげる空間環境に適したゆらぎ癒し効果のある音楽に日本のアイデンティティー溢れる音·和の造形美を独自の音楽世界観で表現し随時新曲をリリースして現在に至ります。

International piano day