あなたの人生でターニングポイントとなったキーパーソンはいますか?と問いかけられた時、思い浮かぶ人、それはEva Claranceと真っ先に答えます。彼女の死を聞いてからちょうど1周忌。

写真は2019年にイギリスのサウザンプトンにて。リアルに対面したのはこの時が初めてで、今となっては最初で最後の顔合わせとなってしまった。仕事で関わり始めて20年の月日が流れた後の初対面。写真を今見返しても自分の緊張した面持ちが伝わってくる。今思うと会っておいて本当に良かった。後悔なしとはこういうこととつくづく思う。

下記は、そのEvaから人生初オファーを受けた時についての記事です。このWebサイトのオンラインレッスンの講師紹介ページに記載されている私の半世紀の出来事について綴ったページより抜粋します。

豊かさと繁栄は人とのご縁が運ぶもの。

そんなことを教えてくれたEvaとの貴重な出逢い。今日も幸せな一日を終えることができたことを感謝しながら偲びます。

出逢いはひょんなことがきっかけであった。

その当時知り合いだったオーストラリア人のミュージシャンが、海外のホテル遠征の仕事をする為にとある事務所に応募をしようと思っているという話しを相談されたことがあった。本命としては、他メンバーと既に組んでいるトリオが通ってほしかったから、できればそのグループで頑張りたいというのだが、オプションとして、万が一の保険をかけるという意味で、私とデュオ形態のグループも組んでプレゼンテーションしたいということであった。スカウトの確率が増えるからという理由からだった。

乗るか逸るかも試してみなければわからない。一発勝負とばかりにデュオのパッケージを作ることに承諾した。デモ音源と写真をエージェントに送ったその結果は!?

実際、Evaはそのオージーミュージュシャンの応募パッケージにどう返信してきたかといえば、本命のはずだったトリオグループのことは完全に無視。なぜだかその理由もノーコメントだったので結局そのグループについては一言も聞けなかったらしい。その代わりに、なぜだか私と組んだデュオに関しては、Lovelyを連発し、私のことをFreshだのUniqueだと、なぜか気に入ってくれて、是非このデュオグループを世界どこかのホテルラウンジへ送り込みたいと言ってくれたという結果となった。それがEvaとの繋がりの第一歩の出来事となった。

人生初めて海外からのオファーが舞い込んだのが2001年。

イギリス・ロンドンで音楽エージェントを営むEva Claranceとの出逢い。私の人生のターニングポイントのキーパーソンとなったEvaは、世界中のホテルへ長期滞在型で演奏するミュージシャンを送り込むことを得意としていた。

オファーが来た行き先はシンガポールヒルトンホテル。この一連のオファーまではEメールのみでやり取りされた。Evaとは、後の2019年の世界一周航海時にイギリスのサウザンプトンで初対面するまではバーチャル上の繋がりしかなかったけれど、この2001年の初オファーをきっかけにしてその後ずっと友好的に20年近くも、仕事を回してくれていたのだから、濃いご縁を感じずにはいられない人だった。

その初オファーの時も、契約書を打った直後に一度だけEvaと国際電話で会話をしたのみ。日本であればビジネスは顔を見てその人の人間性がわかった上でないと信用できないという当たり前の常識は全くなく、合理的な契約があっさりと交わされたことには当時は凄い衝撃を受けた。

業務内容の理解力、対応力と即戦力さえ備わっていればビジネスパートナーとして進行できるという定義はこういう業界で長い時間を過ごした後の結果論として、今だからこそ理解できること。でも、当時からそんな力が自分に既に備わっていたとは到底思えなかったので、そういった素養が少なからずもあった芽を信じて引き上げてくれたEvaの思い切りの良さには感謝しかない。背伸びをしたらそこに届いたというチャンスを与えてくれた恩人であり仕掛け人。

初オファーを受けてシンガポールへ明日出発という前夜には世界中を凍り付かせたあの出来事が起こった。大惨劇のニュースとして忘れられないニューヨークで起こった911事件だ。ちょうど荷造りをしていた最中にテレビからパッと目に入って来た。最初これはSF映画のワンシーン?と目を疑いながら呆然とした。翌日、行く先々の空港では厳重なテロ警戒。初海外オファーヘ向け、とにかく無事に現地へ渡らせて欲しいことと、ちゃんと契約通りの任務を果たさせてほしいということ。願いはその2つだけであった。シンガポールへ向かう途中は珍道中に見舞われながらもなんとか無事上陸。

到着したシンガポールは活気に満ち溢れコスモポリタンで華やかなムード満載のエンタメで賑わっていた。それを目の当たりにして幸いにも直ぐにモチベーションを切り替えて仕事に打ち込むことができた。その頃のシンガポールはこれから経済が発展していくと言われていた成長期の真っ只中にあって街も人々もキラキラと輝くように映った。

日曜日以外は毎晩夕方から午後11時頃までホテルラウンジで演奏した。仕事が終わって滞在する客室階の自分の部屋へ戻り、それからまた外の通りに出る。オーチャードロードからタクシーを拾って出かける先はというと。

街に溢れる様々な演奏者を聴く偵察と研修が名目ではあったが、ミュージシャン恒例の肝試し= 「飛び入り」をしに行くための真夜中のお出かけであった。技を磨く絶好のチャンスとも言える課外授業のような気持ちで出かけて行ったことが懐かしい。

眠らないシンガポールには深夜を過ぎても夜な夜な生演奏しているホテルのバーが連なっていた。日本のホテルでは考えられない環境だった。5つ星ホテルであってもジャムセッションや飛び入りの演奏参加を快く受け入れ合う。マネージメント側もミュージシャン達にステージ内容は託していて飛び入りもミュージシャン側の人選を容認しているようだった。大らかなその土地の環境であるがゆえに許された自由な音楽環境は天国みたいな場所だった。

今のデジタル時代にはピンとこないフレーズの言葉となりつつある、音楽の技も感性も現場で叩き上げてなんぼという洗礼を当時のシンガポールからは沢山受けました。成長の糧となった街。良き思い出がいっぱい詰まった今でも大好きな街。